夢・憶え書き #4 「 断末魔 」

 星一つ見えない薄暗い道を、ボンヤリ滲んだ外灯頼りに歩いていた。
たぶん真夜中なのであろう、人っ子一人いやしない。
冷え込んだ空気に歩道のアスファルトが薄く凍り始め、
ときどき水面のようにキラキラした。
 オノレの脳はまるで空ッポ、思考するなにものもなかった。
そんな蝉の抜け殻のごとき脳に、奇妙な声が響き始めた。
女の荒い息づかいと叫び、断末魔を思わせる男の悲鳴、
驚愕したような人々のどよめき…。
 オノレは急な緊張に襲われ耳を欹て声の出所を探った。
足下に錆びたマンホールの蓋があり、声はその蓋の下から聞えてくるのだ。
恐る恐る蓋の窪みに指を入れ力一杯引っ張ると、
「グワラ〜ン」と鈍い音を響かせ蓋が開いた。
同時に奇妙な声が三倍の大きさになってオノレの鼓膜を振動させた。
 マンホールの下には、鉄板でつくられた人幅ギリギリの螺旋階段があり、
ずっと底深く続いているようだ。
オノレは極度の緊張で脂汗を出しながら、
しかし怖いもの見たさの抑えがたい興味で、
一歩一歩、腰を屈めながら螺旋階段を、
やはり鉄の冷たい手摺をしっかり掴んで降りていった。
 底に向かって何段下ったのであろうか。
ようやく螺旋階段の底近くに辿りつくと、オノレの視野一杯に、
さほど広くない、すり鉢状に広がるシアターが入った。
 すり鉢の底には三坪くらいの舞台があり、
客席全体は銀色に光った鉄パイプが縦横無尽、
まるでジャングルジムのように空間一杯に組まれている。
 鉄パイプには猿のように腕を絡ませ舞台を観る満員の観客がいた。
彼らは自分の尻をパイプにのせ座っていたり、
その上に立ったりしながら舞台を眺め、
ときに息をひそめ、ときに唸ったりどよめいたりしている。
 何本ものサーチライトのような光の照明が、
上から下から舞台や客席に関係なく空間全体を射抜く。 
 オノレが観客たちをよく見ると、不思議なことに彼らは皆黒一色の服装。
まるで厳しい戒律に従うイスラム女のようだ。
彼らはべールで顔を被い、布にあけた両目の穴から鋭い視線を爛々とさせ、
すり鉢の底にある狭い舞台へ集中させている。
 この異様な空間に慄きつつ、オノレは息を殺して螺旋階段の一番下まで降りた。
そこがすり鉢シアターの最上部であった。
オノレは階段のすぐ真下にあったパイプの上に足をのせ、慎重に客席部分へと移動した。
両脇のパイプをしっかり握り、わずかにあった人と人の隙間に立つ。
瞬間、オノレはオノレの姿を思って凍りついた。

オノレはベールも被っていないはずだし、たぶん藍染の作務衣姿ではないか? 「これは不味い…」
 オノレは確かめるようにオノレの体を弄り、さらに凍りついた。
何とオノレも彼らと同じ、全身黒服姿になっていたのだ!
もちろん顔も目だけをのぞかせた黒いベールを被っている。
一瞬凍りついたが、すぐ我をとりもどした。
「オノレはよそ者でも、異端者でもない。」そう思ってホッとした。
ホッとして、黒山のごとき客席の群れと共に舞台へ目を向けた。
 舞台では、スポットライトの照明の中、
蒼白な顔を引きつらせ、紅い唇で激しく呼吸し、
純白のドレスを鮮血で染めながら、
右手にやはり血だらけの斧を持った女優が、
ヒステリックな叫び声を狂ったようにあげていた。
 叫ぶ女優の足下に、血まみれになった男の役者が、
そろそろ虫の息という態で倒れ断末魔の悲鳴をあげている。
しかしその恐ろしい場面を観ながら、オノレは妙な違和感を感じていた。
断末魔の役者に見覚えがあった。
「誰だったかな…?」
 なかなか思い出せないオノレの記憶に苛立ちながら、
悶える役者をさらによく見つめると、
その役者の様子も女優の叫びも何となく可笑しい。
よく注視すると男の役者は、どうも断末魔の苦しみという演技ではないのだ。
まるで別の苦しみ方をしているように思える。
女優は女優で、斧を振りかざし血だらけで叫んでいるが、
同じ叫びをただ時計の振り子よろしく繰り返すだけ。
 首を傾げてその演技を凝視していたオノレは、
信じ難い衝撃で目が点になり心底震えた。
「あの身悶えする役者の衣装は、いつもオノレが着ている作務衣だ!」
 胸に張り裂けそうな疝痛を感じた。
直後、客席最上段の鉄パイプに立ってるオノレの体が真っ逆さまにスッ飛び、
舞台上で断末魔の悲鳴あげる役者の体へと移動したのである。
 血まみれの舞台で、オノレは身悶え苦しみつつ焦りに焦っていた。
断末魔役の最後に言うべき大切な台詞が出てこない。
何と言って死んでいくのか、まったく忘れてしまった。
その台詞をオノレがしっかり言わない限り、
斧を持った女優の言うべき、最も大切な次の台詞を女優は言えない。
女優はオロオロオロオロ頭にきて、
ただヒステリックな叫びを繰り返し発している。
 オノレは救いを求めるように客席へ目をやった。
そして三度オノレは動転したのである。
黒一色のはずであったあの観客たちが、
いつのまにか色とりどり、さまざまな服装をした老若男女に変わっている。
もちろん顔のベールもない。
しかもあのすり鉢のジャングルジムのごときシアターが、
きちんと座席の並んだ立派な小劇場になっているではないか。
 満席の老若男女の客たちから海鳴りのようなどよめきが起った。
オノレと女優の不自然な演技に気づき、
二人の真実身悶えする苦しい事情を察したのであろう。
観客たちは椅子に身を浮かばせては沈め、捻っては前後に揺らし、
どよめきは小波のような笑いとなり、哄笑となり、
爆笑の渦となっていつまでもいつまでも静まらないのであった。